23年度報告

1)佐賀における製菓業の変遷

佐賀市を調査対象の範囲とした。
engraf

竈帳(嘉永 7 年)に記載されている佐賀城下町の製菓業一覧では114 件であった。
sagajouka_kasi町別分布

竈帳に記載してある製菓業を町別にその分布を示すと図2-3のようである。町別製菓業数では、38 町のうち30 町に製菓業があり、材木町が東・西・下西を合わせて19 軒と最も多く、次いで八戸宿が11 軒である。蓮池町、唐人町、西魚町が最下数で1 軒であるが、複数以上ある町が30 町のうち27 町におよび、城下町全体に分散していたことが読み取れる。

(1)江戸期から残る製菓業
 これまでの作業で、製菓業関連の明治から現代にかけての佐賀市の製菓業事業所が確認できたのは、別表の通りである。
 これによると、竈帳で確認できて明治以降も残っていた製菓業は、古川源四朗(柳町)、村上小四郎(柳町)、中溝菓子店(呉服元町)、( 資) 鶴屋菓子舗(西魚町八丁馬場)、徳永飴総本舗㈲(金立町)の5軒であり、佐賀城下町外の( 資) 本村葉隠堂(川副町)を加えて5軒である。しかし、古川源四朗、村上小四郎は戦前で滅失しており、今日に残るのは4軒のみであった。

turuya
鶴屋菓子舗

(2)明治期の製菓業
 明治期に創業した製菓業は、江戸期からのものを除くと11 軒である。これらのうち、北島(白山町)、曙菓子舗(東魚町)、高橋餅屋(嘉瀬本町)の3軒である。
(3)大正期の製菓業
 大正期に創業した製菓業は、26軒にのぼる。しかし、これらのうちで今日にも残っているのは、大坪製菓㈱(今宿町)、山崎菓子店(松原町)、都せんべい本舗(高木瀬町)、塚原邦男最中種店(嘉瀬町)、牟田製菓店(川副町)の5軒のみである。
(4)昭和初期の製菓業
 昭和初期(戦前)に創業した製菓業は、23軒である。そして、これらのうちで今日に残っているのは、おぼろ月本舗小川菓子舗(蓮池町)、ホームラン堂(愛敬町)、村岡屋本店(神野町)、やつだ屋(富士町)、白玉饅頭本家池の家(富士町)の5軒である。
 このように、佐賀における製菓業の盛衰は著しく、今日でも117 軒が営業を続けているが、そのうち昭和初期以前から残っている製菓業事業所は、17軒であることが明らかになった。

中溝一雄家について
中溝一雄家住宅(屋号:ひぜんえびすや)は、安永年間創業であり、佐賀市では最も古い老舗の製菓店の一つである。度重なる改修によって当時の姿をほとんど伝えていないが、建物自体は幕末に遡ると伝えられており、少なくとも明治2年にさかのぼる町家建築でもある(詳細は後述)。そして、長崎街道の角地に位置しており、江戸末期から明治初期における佐賀の角地町家がどのような姿をしていたのかを明らかにすることができる点でも学術的意義がある。
nakamizo2jpg

 佐賀鍋島藩では、士分でありながら城下町で商業を営む者が多かったことはすでによく知られていることであり、士農分離や士商分離が徹底していなかったと考えられる。中溝家が城下町に住みながら被官する下級武士の家系であったこと、その身分のなかで製菓店を営んだことはほぼ間違いないであろう。
nakamizo1

固定資産課税台帳による主屋の建築年は明治2年であり、本研究における復原的分析結果からも、明治2年以前に建築されていたことは確かである。たとえ記載通り建築年が明治2年であったとしても、その時代は依然として幕藩体制の統制の気質が強く残っており、二階に座敷を設けることをしなかったと考えられ、間口税(棟別銭)の影響で特に二階は閉鎖的につくることが一般的であったと考えられる。しかし、中溝一雄家住宅においては、明治2年に既に二階に座敷が設けられており、居室として使用されていた。その時代背景からみても、中溝家の二階座敷の存在は、極めて珍しい事例であると言える。

鳥栖の製菓業と長崎街道
田代の八坂神社の前に佐藤製菓舗がある。創業明治7 年である。建物は改修されていて、明治初期のモチーフは見当たらなかった。

田代八幡神社のエビス市(「代官所日記」に延享2 年1745 年に市が行われていたことが記されている)では、期間限定の「ゑびす栗まんじゅう」が今も焼かれている。明治中期から代々伝わる鋳物の栗型で、地粉に卵、ミネラル分の多いキビ砂糖、水飴を加えた独特な生地に北海小豆のこし餡を入れ、炭火で焼き上げるものである。「焼型はもう4台しか残っていないんですよ」と佐藤氏が見せてくださった。

satou01 satou2

橋については、江戸時代は船での渡しや飛び石が多く、また、近代において河川改修の際に取り壊されたものがあり、残っているものはないとのことであった。そこで興味を引いたのは、鉄道橋である。明治22 年に架けられ、現在も活躍中のレンガの橋である。通称「めがね橋」と呼ばれているが、3連である。マンション工事に伴って、小道も整備されているが、もっと取り上げられて良いと思う。鉄道が単線から複線に変わった大正10 年に継ぎ足されており、中央の線は継ぎ目である。

rosenkyou

田代代官所跡にある石碑には、線刻恵比寿様がある。文字通り、石碑に線で掘られた恵比寿様だが、鯉を抱えておられ珍しいものである。お顔もふくよかで、おおらかな笑顔である。恵比寿様の鯛と鯉を見分ける方法は、魚の厚さである。鯛は平べったく、鯉は丸い。ebisu
さらに南へ行くと、瓜生野八坂神社がある。この神社は、縁起(寺社縁起。故事来歴の意味に用いて、神社仏閣の沿革(由緒)や、そこに現れる功徳利益などの伝説を指す)によれば、正安元年1299 年に山城八坂神社の分霊を勧請したとされている。

境内の入口には猿田彦大神の大きな石碑が建っている。現在は神社内に移動され、街道には向いていないが、昔は長崎街道に向いていた。旅の神様で、街道を行きかう人々の安全と道しるべのために建てられている。現代の旅人の何人が気付くであろうか。また道側に建っていたのを移設する時、なぜ向きをかえたのであろうか。そこに、歴史家がいなかったのは残念である。石碑の後ろ姿は堂々としていて印象的である。

今回長崎街道沿いではなかったため、建物調査を行わなかったが、御菓子司鶴屋の建物は大変興味深い。江戸末期頃の建物で、当時の様子が良く残されている。
 建物の詳しい調査は行われておらず、ぜひ記録に残しておきたい建物である。川が敷地内に引き込まれている点も面白い。寛永年の創業で、「菓子仕方控學」等も残されており時代考証も行う事が出来ると考える。
 また、与賀神社の門前町として発展したものであろうが、周辺にも昔の建物が数件残っている。今後、機会があったら、ぜひ調査したい建物及び街並みである。
 今回は、写真を掲載する。

 tamaya tamaya2